2014.06.18
恩師を送る
近寄りがたい雰囲気の監督だった。
高校一年の夏までだから、教えを受けた期間は四ヶ月あまりだったが、未だに
その印象が強いということはインパクトがあったのだろう。
わずか5年間の監督就任期間ではあったが、春のセンバツ甲子園に出場という
輝かしい成績を残した。
送りバント失敗や見逃し三振などしようものなら、そのかん高い声で
「ハイ、交代!」と
冷徹で威厳の或る采配ぶりだったが、勝負運を持っていた人だったと思う。
ノックもうまく、私は相性がよかった。(コーチとは相性が良くなかった)
監督のノックは良く取れるのだが、コーチのノックはなぜか取れないのである。
その後は、家業の菓子製造業を営むかたわら、長野県議会議員選挙に立候補
当選して議員生活を送ったりした。
晩年はパーキンソン氏病を発病して、歩く事もままならなかったが、
それでもグランドに脚を運び、選手の姿を追いかけていた。
私が監督と最後に会ったのもグランドだった。
監督の「脚」となって、観客席を降りる補助をしたのが最後だった。
告別式はその人が生きた証しだ。
会場には甲子園出場時のパネルや記念品などがずらりを並んだ。
そして、祭壇も野球のボールで形創られていた。
80年の生涯のわずか5年間ではあったが、やはり1番の思い出だったのだろう。
そのくらい、甲子園は、野球という物は我々を魅了してやまないのである。
橋本 浩 勝負強い監督であった。