2012.03.29
ヒロナガ
先に行って勝手に俺の名を語るな、、と彼に言いたい。
最近はやりのFacebookをタイムラインに切り替えて、自分の年表作りをしてみた。
1966年誕生、1972年聖フランシスコ保育園 入園、、、、現在に至る。
改めて振り返ってみると1989年4月から12月のアメリカの学校に居た(留学ではない)時というのが、自分にとって真に自由な時代であったなと思う。
アメリカ前はオヤジ林襄の息子として常に見られ、アメリカ後も林襄の息子として、オヤジ亡きあとはみすず工業の社長として、どこか肩肘はって生きて来た。
目つきの悪いやつだった。
そして無愛想で、どこか日本から来た留学生と距離をおくかの態度であった。
しかしその態度は彼のクセで或ることがすぐに分かる。
我々は勉強そっちのけで、今日はハリウッド、明日はサンタモニカビーチと遊びまくっていた。
二人で夜通し運転してサンフランシスコまで行き、ゴールデンゲートブリッジの駐車場で仮眠したこともあったな、
あいつの友達を訪ねてUCサンタクルーズのどでかいキャンパスに行き、彼女の友人の部屋の板の間のリビングに寝かされたときは腹が立ったな。。
目つきが悪いのとは逆に友達の輪は広かった。
彼を中心に仲間の輪が広がっていた。
時がたち、我々はみなそれぞれの人生をあゆみ始めた。
就職し、結婚し、子供が生まれ、、、、そして経営をし、、
もう、昔の仲間と会うことも無くなった。
ただ一人、ヒロナガだけは違っていた。
自由気ままだったあの頃のまんま、自由人のまんま。
なので、彼に会うときはいつでもあの時代に戻ることができた。
朝、椅子にもたれて寝ているようだったという。
彼の心臓は二度と動こうとはしなかった。
お通夜に参列すると懐かしい顔が沢山あった。
君が考えていた同窓会ってやつはこういう形だったのか。。。でも主幹事が居ない。
目を閉じていた。月並みだが安らかな顔で。
賢誠宏道居士 俗名 高橋宏長 享年四十五歳
ヒロナガよ、同じ名前はないだろ、、君が決めた訳じゃないか。。。
ヒロナガよ、どんな人生だったかい、、悔しいだろうが我々は感謝している。君も少しは満足してくれ。
ヒロナガよ、今なにしているんだい、、、
まあ、そのうちにまた会うことになるだろう、
そのときは、、おそらくその目つきで無愛想に迎えてくれるのだろうな
本当はうれしいくせに。