2011.03.22
被災地へ
刈り取られた稲の脇に横たわる大きな魚。
歩道に停めてあるかのように置いてある幾艘ものボート。
かつてここが海であったかのような異様な光景だった。
金曜日の夜、カミサンの実家、宮城県亘理町へ向けて出発した。
地震直後には連絡が取れて安否は確認できたものの、実家とは津波が押し寄せて以降連絡が取れないでいた。
テレビとインターネット、特にツイッターで続々と入る情報を一日中見ながら実家が津波の被害にあっているかどうか、、、確認し続ける日が続いた。
カミサンの弟も消防士として職場に出たきりで親の様子など見ている時間がない。
何日かして衛星写真が配信されて拡大してみるとどうやら実家までは津波が来ていない事を確認した。
避難所生活をしているのだろうか?
それから何日かして義弟の奥さんが実家へ行くことができて、家にいるのを確認した。
ようやくひと安心できたが、未だに本人たちとは連絡が取れない状況で、いてもたってもいられずカミサンを連れて実家まで行くことにした。
被災地に負担がかからないように、ガソリン缶を積み、できる限りの物資を積み込んで新潟経由で山形県を越え、6時間をかけて被災地入りした。
宮城県に入るとまだ真っ暗にも関わらず、スタンドというスタンドで列をつくって給油待ちしている車がいる。
通行止めの道は多少あるもののスムーズに実家までつき、外見は損傷の無いことを確認して、まだ早いので車中で寝ることとした。
余震2回。 まだ揺れている。
朝になって家に入ってみると思ったより元気な両親がいて、無事とは聞いていてもやはり実際に会うとほっとした。
朝食後、亘理町役場へ向かい、知人の医師から預かってきた医薬品や、生活用品などを届けた。
普段は平和なのんびりとした町役場なのだが、自衛隊の車両が停まっているだけで事の重大さが伝わってくるような緊張感が漂っていた。
カミサンの友人を訪ねる。
彼女の家もぎりぎりのところで津波の被害を受けずに済んだらしいが、家の人は流れてきた4歳の女の子の遺体を目にしてしまったらしい。
また、人々は気が立っていて、ガソリンスタンドに間違えて途中から列に入ってしまい、抜けるのに手間取っていた彼女の叔母は、周りからどやされ、ドアをボコボコに足蹴にされてしまったとのこと。
スーパーに買い物に行く。
どのスーパーも入場制限で長蛇の列ができるなか比較的すいている店を選び並んで入ってみると、物はそこそこそろっていた。
この流通の大変な時にどうやって入荷したのだろう。
但し、主要な商品については一人1種類につき2個までという制限付きで売られていたが。
こうして亘理町で過ごしてみると、家が倒壊している訳でもなく、町内のガソリンスタンドも長蛇の列はあり人々は疲れた表情をしているものの、人並みの暮らしはできているのかな、と思った。
なぜならば、実家から車で5分も走らないうちに田んぼの魚や、歩道のボートが見えてくる、、、
やがてその先は通行止めで行けなくなるのだが、その向こうの状況を想像すると如何に津波の被害が甚大だったかを思い知らされるからだ。
当日は自衛隊が亘理町の地区に入って捜索をしているとのこと。
町の中で何度も霊柩車とすれ違った。
写真は撮らなかった。
この状況は、画面を通しては伝えられないものであると思ったから。
同じ空気を吸って、自分の眼で見て、感じてみないとわからない。
そしてみな、こう感じるに違いない。
絶対に復興しなくてはならない と。