2012.10.1
40年
40年間会社に勤める。 勤め上げた時、ひとはどんな気持ちになるのだろうか。
先代の社長が会社を始めるときに、以前社会人野球の雄、熊谷組で知り合った西尾という男に声を掛けた。
ボストンバック一つで故郷島根から出てきたその人は副社長となり、先代社長を支え続けた。
先代社長はいわゆる「昭和の中小企業の創業者」
わがまま言い放題で怒るときはとことん怒る、その受け皿になって居たのが西尾副社長であった。
私も子どもの頃、電話で西尾副社長に対し、1時間くらいずーーーーーーーっと怒鳴りまくっている親父に遭遇した事がある。
そんな創業以来の片腕の西尾副社長も平成元年に引退。しばらくしてこの世を去った。
西尾副社長の甥っ子が横浜にいたが、いきさつは分からないがみすず工業に入社する事となった。
20歳、専門学校を卒業したてであった。
何歳の頃だろうか、正月の新年会を自宅で行っていた頃、この人を良く見かけた。
カラオケタイムになると必ず真っ先に歌って場を盛り上げようとしていた事を良く覚えている。
(子どもながらに、この人は好きで真っ先に歌っているのではなく、場を盛り上げる責任感において先んじているのだということがよくわかった)
西尾副社長引退後は役員として、同じく先代社長によく怒られた。
その頃になると私も同じ役員だったのでなんどとなくそんな場面に遭遇したが、いま考えてみるとよくそんな暴君のような先代社長の下で役員をやっていただいたと思う。
そして、先代亡きあとも、みすず工業環境株式会社の社長に就任していただいた。
40年が経った。
いつしか創業者を抜いて、最も永きにわたりみすず工業グループに在籍した人になっていた。
生真面目で一本気で、けんかっ早いところもあったが、終始一貫、文句のひとつも言わずに親父と私に仕えてくれた人であった。
みすず工業とみすず工業環境の歴史が閉じるその少し前、9月末をもって静かにその役割が終了した。
40年間会社に勤める。
勤め上げた時、水上社長は何を思ったであろうか。
水上邦夫
一本気のひとであった。
ただ 感謝あるのみ。