2013.11.1
ZEROへの道程 ー清算ー
プライベートの林襄を語れる人は、息子である私を除いてはいないであろう。
家での林襄は寡黙な人であった。
もっとも、私が子どもの頃は、私が起きている時間に帰宅する事はほとんどなかったが、
たまに夕食を共にする時は、ナイターをみながら黙々と飯を食べ、
食べ終わったら、「お茶くれや」とひと言しゃべり、
また黙ってナイターを見ていた。
しゃべる事といえば、その日の選手の調子、「今日は〇〇投手だめだな」など。
なので、親父からめんと向かって「話しがある」と言われたのは、
高校生となったこの時が生まれて初めてであった。
会社の事業が立ち行かなくなった事
いくつかの会社を手放して、なんとか倒産だけは免れた事
倒産という事態になれば、当然大学を辞めなければならなかった事
このとき、初めて倒産という言葉の重みを感じた。
会社として限界を超えていたみすず工業グループ
最後の最後に力を貸してくれたのは、地元の企業であった。
照明器具、インテリアの LOB NOR
4階建ての本社社屋の1階を改装しての一大事業だったが、社屋とロプノール事業を
含めて売却(というか買って助けていただいた)
時代の先取りをしていたコンピューターのシステム会社 日本システム技研
こちらも、教育分野で発展を遂げていた地元の企業に買っていただいた。
(後にこの会社には、思わぬ形で社長自ら恩返しをすることができた)
そして、地元金融機関
本来であれば(当時でさえ)融資などあり得ない状態だったが、その銀行の理事長が
長兄の林 新 の長野中学時代のひとつ上の先輩であった縁で、常々気に留めていただいて
いたおかげで、社長が理事長に直談判したところ
「(君の会社に対する)香典 てことか」
と融資をしていただいた経緯があった。
(その後借入金はすべて返済している)
林 襄 のど根性と多くの人々からの支援によって、倒産間違いなしの会社が
首の皮一枚残して、存続できることとなった。
すべてを清算して、社長が本社ビルを立ち退く日がやってきた。