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2014.02.3

ZEROへの道程 ー画家と指揮者 その2ー

それで、なぜ画家になりたかったのか。

それは小学校の先生の影響からだろう。

当時の小学校(特に城山小学校は?)は、かなり適当な時間割であった。

小学校2年から6年までの担任の伊藤和宏先生は図工の先生で、とにかく

年がら年中「図工」と菊などの花の手入れしかしないのである。

 

図工では絵を描く事が多く、私の絵は二度ほど信濃美術館に展示された。

一つはペンギンの絵、もう一つはチャボの絵で。

チャボの絵は長野県美術展で入選したが、もっとも私の書いたのは一匹のチャボで

あったのに、その背景にもう一匹、伊藤先生がチャボを書き足してしまった。

(子ども心に、いいのだろうか、、と心配になった。)

また、子どものくせにゴッホの絵が好きだったり、ゴッホの伝記を読んだりして、

画家の気分が分かった様な気になっていた。

今思えば、絵描きだった祖父のDNAだったのだろうか。

 

指揮者は、、、、なぜだろう。

兄の影響で小2から小6までピアノを習っていたものの、全く練習をせず先生のお宅で

弾くだけだったので上達する訳が無かった。

だが、学校のお昼の放送でクラシック音楽が流れる時があると、音楽に合わせて大げさな

身振り手振りで指揮をしてみせて笑いを取っていたのがそのきっかけだったのだろう。

(念願かなって中学2、3年の音楽会の指揮者になる事ができた)

今でも、大晦日になると一人別室でTVの前に陣取り、ベートーベンの第9を見ながら

箸を指揮棒代わりに一心不乱に振りまくるのである。

 

ということで

小学校では、授業は図工と花作り、学校が終わったら野球や缶けりなど、

とにかく勉強した記憶が全くなかった。

通信簿はあったものの、宿題も無ければテストもなかったので、果たして自分は

頭が良いのか悪いのかさえ分からず、中学へと進学するのであった。

 

そして、ゴムボールで三角ベースなど(投げ当てあり)の野球ごっこをしていた林少年は、

やがて硬球を使った本格的な野球への道を進み始める。

chabo真

先生が加筆しなくても十分入選したような気がするけどなあ。