2013.04.1
ZEROへの道程 ー起業ー
旧制長野中学、新制長野北高校(現長野高校)での林襄はお世辞にも名選手とは言えなかった。
(このあたりになると記録が残っているからいくら父が講釈をしていもうそはばれてしまう。もっとも父もそれは認めていたが)
最後の夏の大会に外野手としてベンチ入り、ようやく代打で使ってもらう選手だった。
当時の長野北高は同級生二人が高卒後プロ入りするなど強豪校であったが父はとてもそのレベルではなかった。
が、高校卒業と同時に社会人野球の強豪、熊谷組に入社することとなった。
当時の社会人野球はいわゆる ノンプロ プロに行ける実力の選手もゴロゴロしているすごい世界であり熊谷組はその頂点のチームであった。
当然の事ながら父の実力では試合に出られる訳もなく補欠であったようだが、そこで或る男との出会いがあった。
出雲からやってきた怪物スラッガー 西尾雄三
そして、カネボウで都市対抗久慈賞(MVP)種田吉富 である。
父はその後社会人チームをいくつか経て長野に戻り腰を据えたのが電電信越(現NTT信越)野球部であった。
ここでの活躍はまあ、都市対抗野球に出場して後楽園球場で投げたこともあり、自慢してもよいのではないか。
こうして輝かしい成績というわけには行かなかったが、ノンプロ選手として引退をすることとなった。
そうなると後は電電公社のサラリーマン生活、いわゆる三公社五現業、国営企業的なお勤めとなり安定生活が待っていたであろう。
しかし、、、、
林 襄 にサラリーマンが勤まらないのは皆の知っているところであろう。
有限会社林工芸
苦難の道の第一歩であった。