2014.03.5
ZEROへの道程 ー二足のわらじ その3ー
中学時代の野球。(リトルリーグから中学の硬式野球リトルシニアリーグに上がった)
実はあまり思い出が無い。
2014.03.5
中学時代の野球。(リトルリーグから中学の硬式野球リトルシニアリーグに上がった)
実はあまり思い出が無い。
2014.03.4
宿題もテストも時間割もない適当な小学校から、いきなり普通の中学
長野市立柳町中学校に入学した。
時間割に従い、各教科の授業を受ける、或る意味新鮮な学校生活のスタートであった。
2014.03.3
私が野球に出会った原初の記憶。
聖フランシスコ保育園の園庭で、母親にボールを投げてもらいプラスチックの
おもちゃのバットを振るが一向に当たらない。
ぎゃーぎゃーと泣きわめきながら母親を困らせた。
2014.02.3
それで、なぜ画家になりたかったのか。
それは小学校の先生の影響からだろう。
当時の小学校(特に城山小学校は?)は、かなり適当な時間割であった。
小学校2年から6年までの担任の伊藤和宏先生は図工の先生で、とにかく
年がら年中「図工」と菊などの花の手入れしかしないのである。
2014.02.1
子どもの頃
画家 か 指揮者
になりたかった。
なぜそうなのか?理由など考えた事もなかったが、自分の道程を整理する上で考えて
みたい。(みなさまには余計なことですが)
2014.01.4
格好つけるこどもであった。
だらしのない祖父がアルピニストとして放浪の末、腰を落ち着けた長野市。
その地で父は起業し、倒産し、再起をし、一家総出で猛烈に働いていた、
そんな時に私は母のお腹の中にいた。
一日中動いている母に、医者は「お腹の赤ちゃんは諦めてください」と告げていた。
2013.12.5
今年1月4日
EQUAL ZERO のスタートにあたり、何を書こうか、、、
と考えたところ
「高崎の総合病院の嫡男として生まれた祖父はだらしのない男だった」
という文章が頭に浮かんだ。
2013.12.2
本社社屋を去るに当たって
2013.11.1
プライベートの林襄を語れる人は、息子である私を除いてはいないであろう。
家での林襄は寡黙な人であった。
2013.10.1
日本ベンチャービジネス協会副代表幹事
金融問題研究委員会リーダー
長野県商工振興連盟常任理事
長野商工中金出資者協議会世話人
長野県自由経済研究会常任理事
長水商工団体振興連盟常任理事
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